記憶に残る折り紙の思い出(3)

フランスの中学校で折り紙を紹介するきっかけはひょんなことでした。夏をパリで過ごすようになり、いくらかフランス語を上達させたいと、2017年は渡仏前に東京のフランス語学校の通信教育を半年間受講していました。

その講座はネイティブ講師と20分の会話が月に3回できる特典付き。出発が3週間後に迫った6月上旬の会話レッスンの時、講師のナタリーに私は英語で日本文化をいろいろ紹介することができると話の流れで何気なく話したのですが、それに対して彼女は驚く程の高い関心を示しました。直接会って話をしたいと、数日後にはフランス語学校の敷地内にあるフレンチレストランで彼女と一緒のランチ。 そこで、夏休み休暇で9月にホームタウンのフランスのボージョレに戻った際に、彼女が日本を紹介するイベントをいくつか開催する予定であることを知らされ、パリから合流してイベントに協力して欲しいと頼まれました。地元では彼女の友人達がイベントを手伝い、フランス語学校の生徒を含め10名ほどが日本から観光を兼ねてやってくるそうでした。日本人旅行者は全員がホームステイで私はイベントの全体責任者であるナタリーの家に5日間滞在することになりました。

ボージョレでの滞在中は臨機応変が求められました。イベント内容はすべて忙しいナタリーの頭の中で、ほぼ前日か当日それも直前にそのスケジュールを私は聞かされるのです。それに応じて、日本人歌手が歌うシャンソンの夕べでは最初にナタリーがする挨拶の横で私が日本語で言ったり、早く会場を訪れた観客に入り口で折り鶴を貼った紙のブックマーク(しおり)に筆ペンで日本の文字を描いて渡したりしました。日本での仕事をフランス人に知って欲しいとツアーに参加した日本人のイベントでは、私は折り紙のモビールで部屋を飾り、来客者に着物を着てお抹茶を点てました。 人通りの少ない通りにある会場だったので待っていても訪れる人が少なく、それではと外に飛び出して通りがかりの人達に呼びかけもしました。そうして来訪した10代の少年とその母親にお茶を点てて差し出すと、少年がすべて飲み干して「お茶嫌いのこの子が飲むなんて」と母親が驚く一幕もありました。

ナタリーは当時夫の仕事の都合で東京に住んでいましたが、それ以前にはボージョレで高校の校長をしていたので、知り合いに学校関係者が多く、ボージョレ滞在の終盤に地理的にも近いリオンの中学校で生徒に折り紙を教えて欲しいと言われました。 元同僚の中学校教師から要請があったようで、14~5歳の生徒達の2つのクラスを訪問することになりました。 1クラスが25名ほどで持ち時間はそれぞれ25分。 生徒達が折り紙に馴染んでいるかどうかは分からないので、誰もが簡単に折れるようにと初歩的な作品であるカップを教えることにして、前夜ナタリーに折り紙基本表現のフランス語をチェックしてもらい必死に覚えました。

アメリカの学校で日本文化を紹介した過去の経験では、私にとってやりやすいのは小学生で、次に高校生、最後が中学生でした。小学生は何をやっても喜んでくれ、高校生は態度では示さなくてもとりあえず聞く姿勢ができているのに対し、中学生は反応が分かりにくい上に私の下手な発音を露骨に笑う者がクラスに何人かいたのです。折り紙のフランス語はかろうじて覚えたものの、それ以外に会話が成り立つのか当時のおぼつかない私のフランス語力ではアメリカ以上に生徒の反応が危ぶまれる状況でした。

当日はモスグリーン地に御所車、竹垣根と大輪の白菊が描かれたアンティークの着物を着て行きました。ナタリーも付き添ってくれ、教室に入る前に「不安か?」と何度か尋ねてくれましたが私は不思議なほど平静でした。「こんにちは、皆さん、フランス語を1年前に学び始めてまだ初心者ですが、フランス語で話すようにします」と私は自己紹介を始め、日本語には3種類の文字があると自分の姓名を漢字、ひらがな、カタカナで黒板に縦書きに書きました。生徒を見ると、私語は一切なく全員が真剣なまなざしです。それから折り紙を配り、トラブルもなくカップを作成させ、そのあと日本人旅行者から分けてもらった日本のおせんべいの小袋を各自に配りました。驚いたのはそのあとです。最後の挨拶をすると大半の生徒達が私に寄ってきて紙を渡してくれたのでした。そこには私が黒板に書いたように私の名前が日本語で書かれ、お礼のメッセージが添えられていたのです。 なんと礼儀正しいフランスの生徒達。この学校が初めてのフランスでの訪問校なので、それが普通の学校の様子なのか分かりませんが、フランスの学校もいろいろ回ってみたいと強く思いました。そしてこの中学校での楽しい経験が、その後フランス語学習に対する私の意欲を一気に高めることになったのでした。

タイトルとURLをコピーしました